サックスの「ド」はなぜピアノの「シ♭」なのか:移調楽器の謎
中古のテナーサックスを探し回って手に入れたあと、教則本でもメーカーの解説でも、早い段階で同じ説明に出会います。「サクソフォンは移調楽器です」。譜面に書かれた「ド」を吹くと、鳴るのはピアノの「シ♭」だ、と。ピアノも弾く人間からすると、これはなかなか受け入れがたい話です。ドと書いてあるならドが鳴ってほしい。なぜわざわざ、譜面と実際の音をずらしておくのか。しかもこの仕組みは19世紀からほとんど変わらずに残っています。誰も面倒だと思わなかったのか、それとも面倒でも残すだけの理由があったのか。楽器メーカーと百科事典の説明をたどってみたら、答えははっきり後者でした。
移調記譜は、奏者が楽器を持ち替えても運指を変えずに済ませるための、譜面側の工夫です。
楽器が狂っているのではなく、譜面が書き換えてある
まず用語の確認から。ヤマハの「楽器解体全書」は移調楽器をこう定義しています。「移調楽器というのは、実際に出る音(ピアノで出る音=実音)と楽譜に記された音とが異なる楽器のことです」※1。
そのうえで、サクソフォンの内訳はこうなっています。テナーとソプラノは普通のクラリネットと同じくin B♭で、どちらも譜面のドを吹くとシ♭が鳴る。アルトとバリトンはin E♭で、譜面のドを吹くと実際にはミ♭が出る※1。管楽器のパート譜は、ほとんどの場合こうして楽器の調子に合わせて移調されています※1。
ここで誤解しやすいのが「楽器のほうがずれている」という受け取り方です。実際は逆で、ずらしてあるのは譜面のほうです。改訂新版 世界大百科事典は移調楽器を「実音と違う高さに移調して書いた楽譜を、正規のものとして常用する楽器」と定義し、その原理を一行でこう説明しています。「その楽器にとっての基本の調が、楽譜上ではハ調になるように移調する」※2。
この一行が、実は全部の鍵でした。B♭管なら、その楽器の基本の音であるシ♭を、譜面上では「ド」と書く。E♭管ならミ♭を「ド」と書く。F管ならファを「ド」と書く。楽器の種類がいくつあろうと、奏者にとっては「譜面のドを、いつもの運指で吹く」だけになります。
楽器を持ち替える世界のために書かれた譜面
では、なぜそんな書き方をするのか。世界大百科事典は身も蓋もなく言い切っています。これは「楽器自体というより、むしろ演奏の便から出た楽譜の書き方の問題」である、と※2。
木管楽器側の事情は、運指表を見ると一目瞭然でした。ヤマハによれば、サクソフォンは基本的な音の運指が全部同じで、バリトンサクソフォンでもアルトサクソフォンでも同じ運指表が使えます(バリトンにしかないLow Aを除く)※3。つまり、譜面のほうをその楽器用に移調しておけば、アルトからテナーに持ち替えても指の動きは何ひとつ変わらない。ソプラニーノからバスまで6種類ある一族を、奏者は運指ひとつで渡り歩けるわけです。
クラリネットはもっと露骨です。この楽器はA管とB♭管の2本セットで扱われ、楽譜上の同じドを吹いても、A管ならラ、B♭管ならシ♭が実音として出ます。♯の多い曲はA管、♭の多い曲はB♭管という使い分けがあり、奏者は曲の途中でマウスピースとリードをもう一方に付け替えたり、樽ごと替えたりして持ち替えます※4。譜面の書き方が共通でなければ、この芸当は成立しません。
金管楽器の事情はもう少し歴史的です。ヤマハのトロンボーン解説にはこうあります。「多くの金管楽器は、19世紀初頭にバルブが発明されるまでは、自然倍音を中心とした演奏でした。そのため、音楽の調に合せて楽器を持ち替えたり、替え管を使用したりしていたので、移調譜が実用的でした」※5。
出せる音が倍音列に縛られていた時代、金管奏者は曲の調ごとに楽器そのものを取り替えていました。そこで譜面を実音で書いてしまうと、調が変わるたびに読み方まで変わってしまう。楽器の側を交換する前提なら、譜面の側を固定しておくほうが合理的だったのです。
要するに移調記譜は、楽器が固定されていない世界に最適化された仕組みでした。その後バルブが発明されて金管は1本で全調をこなせるようになりましたが、譜面の書き方だけが慣習として生き延びた。いま私たちが面倒だと感じているのは、解決済みの問題に対する解決策の化石、ということになります。
トロンボーンだけが実音で書かれている理由
面白かったのはここです。トロンボーンもB♭管なのに、譜面は実音で書かれます。同じ金管で同じ調なのに、なぜ扱いが違うのか。
ヤマハの説明は明快でした。「トロンボーンは15世紀頃から半音階を演奏できたため、早くから一般的な実音表記が定着したのです」※5。スライドという機構のおかげで、トロンボーンだけがバルブの発明を待たずに全部の音を出せてしまった。楽器を持ち替える必要がなかったので、移調譜という発明品も必要なかったわけです。
世界大百科事典も同じ線を引いています。金管楽器は「総体に移調楽器が優勢で、今日その多くは変ロその他変種調を基調とする」が、「トロンボーン、ユーフォニアム、チューバ等の低音楽器は実音通りの譜を用いることが多い」※2。
つまり、ある楽器が移調楽器かどうかは、楽器の格でも新しさでもなく、その楽器がいつ半音階を手に入れたかという履歴で決まっている。楽譜の書き方が楽器の発明史をそのまま化石として保存している、という見方もできます。この構図に気づいたときが、今回いちばん腑に落ちた瞬間でした。
読み替え早見表:ドがどこに着地するか
覚えるべきことは、実はひとつだけです。その楽器の基本の調を「ド」と書く※2。これを当てはめると、あとは自動的に決まります。
| 楽器の調子 | 代表的な楽器 | 譜面の「ド」→ 実際に鳴る音 |
|---|---|---|
| B♭管 | テナー/ソプラノサクソフォン、B♭クラリネット | シ♭※1 |
| E♭管 | アルト/バリトンサクソフォン | ミ♭※1 |
| A管 | A管クラリネット | ラ※4 |
| F管 | ホルン、コーラングレ | ファ※2 |
| 実音表記 | トロンボーン、ユーフォニアム、チューバ | ド(そのまま)※2※5 |
F管の欄は世界大百科事典の記述から導けます。コーラングレは「基調はヘ調であるが、5度高く移調し、ヘ音が鳴るべきところをハ音として書く」※2。ヘ音(ファ)が鳴る場所にハ音(ド)を書くのだから、譜面のドは実音のファになります。
ホルンにはさらにひねりがあります。ヤマハによれば、F管はホルンの基本的な調子で独特の美しい音色を持ち、B♭管はF管より4度高く明るく歯切れのよい音になる。ところがB♭管を吹くときも「楽譜はin Fで記されるため読みかえが必要」だといいます※6。楽器を持ち替えるための移調記譜だったはずが、ホルンでは持ち替えた側が譜面に合わせて読み替える側にまわっている。約束事が独り歩きした結果に見えて、ここは少し笑ってしまいました。
なお、この表で対応させたのは音名だけです。オクターブの位置は楽器ごとに違います。ヤマハはサクソフォンを音程の高い順にソプラニーノ、ソプラノ、アルト、テナー、バリトン、バスと並べていますが※7、同じin B♭のソプラノとテナーでは、譜面のドから鳴るシ♭の高さそのものが違います。表は「どの音名に着地するか」の早見表として使ってください。
調べても分からなかったこと
サクソフォンの調が、なぜB♭とE♭に落ち着いたのか。日本大百科全書には「最初は管弦楽用としてF管、C管の楽器もつくられたが、現在は管弦楽においてもB♭管、E♭管が使われる」とあります※8。管弦楽用に別の調の系列がわざわざ作られながら、いまは管弦楽でもB♭管とE♭管に統一されてしまったわけです。
ただ、なぜ管弦楽用の系列が消えたのかを説明した記述には、今回たどり着けませんでした。サックスが1846年にパリで取得した特許※8※9の原文まで当たれば手がかりがあるのかもしれませんが、そこまでは手が回っていません。分かったら追記します。
まとめ:これは楽器の欠陥ではなく、規格の話だった
調べる前は、移調楽器を「初心者を混乱させるだけの悪しき慣習」くらいに思っていました。いまは意見が変わっています。これは楽器の欠陥ではなく、規格の問題です。
サクソフォン一族6種類を運指ひとつで渡り歩けるのも※3、クラリネット奏者が曲の途中で楽器を持ち替えられるのも※4、譜面という互換レイヤーが調の違いを吸収してくれているからです。奏者ひとりの負担を、楽譜を書く側が肩代わりしている。そう捉え直すと、譜面のドがシ♭で鳴ることに腹も立たなくなってきます。
もっとも、19世紀の楽器持ち替え事情のために21世紀の初心者がつまずいているのも事実です。互換性を保つために古い仕様を捨てられない、というのは、どこかで見たことのある光景でもあります。
参考文献・出典
※1 : 「サクソフォンの吹き方:サクソフォンは移調楽器」 |楽器解体全書(ヤマハ株式会社) https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/saxophone/play/play003.html
※2 : 「移調楽器(イチョウガッキ)とは? 意味や使い方」 |コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%A7%BB%E8%AA%BF%E6%A5%BD%E5%99%A8-31409
※3 : 「サクソフォンの吹き方:サクソフォンの運指表」 |楽器解体全書(ヤマハ株式会社) https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/saxophone/play/play002.html
※4 : 「クラリネットのしくみ:クラリネットは管楽器一の個性派!?」 |楽器解体全書(ヤマハ株式会社) https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/clarinet/mechanism/mechanism005.html
※5 : 「トロンボーンのマメ知識:基音と譜面の表記のズレの理由は?」 |楽器解体全書(ヤマハ株式会社) https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/trombone/trivia/trivia011.html
※6 : 「ホルンの成り立ち:現代のホルン」 |楽器解体全書(ヤマハ株式会社) https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/horn/structure/structure002.html
※7 : 「サクソフォンの成り立ち:サクソフォンの仲間」 |楽器解体全書(ヤマハ株式会社) https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/saxophone/structure/structure002.html
※8 : 「サクソフォーンとは? 意味や使い方」 |コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%81%95%E3%81%8F%E3%81%9D%E3%81%B5%E3%81%8A%E3%83%BC%E3%82%93-3152868
※9 : 「サクソフォンの成り立ち:サクソフォン誕生ストーリー」 |楽器解体全書(ヤマハ株式会社) https://www.yamaha.com/ja/musical_instrument_guide/saxophone/structure/
よくある質問
サクソフォンは移調楽器ですか?
はい。ヤマハの解説によると、テナーとソプラノはin B♭で譜面のドを吹くとシ♭が鳴り、アルトとバリトンはin E♭で譜面のドを吹くとミ♭が鳴ります。楽器が狂っているわけではなく、その楽器の基本の調がハ調(ド)になるように楽譜のほうを書き換える、という記譜の約束事です。
なぜ管楽器の楽譜は実音で書かれていないのですか?
奏者が楽器を持ち替えるためです。サクソフォンは基本の運指が全種類で共通なので、譜面をその楽器用に移調して書いておけば、アルトからテナーに持ち替えても指の使い方を覚え直さずに済みます。金管楽器の場合は、バルブが発明される19世紀初頭まで曲の調に合わせて楽器や替え管を差し替えていたため、移調譜のほうが実用的でした。
トロンボーンはなぜ移調楽器ではないのですか?
半音階を出せるようになった時期が早かったためです。ヤマハの解説では、多くの金管楽器がバルブ発明まで自然倍音中心だったのに対し、トロンボーンはスライドによって15世紀頃から半音階を演奏できたため、実音表記が早くから定着したと説明されています。ユーフォニアムやチューバなどの低音楽器も実音の譜を使うことが多くなっています。